育休と出産
我が子に合わせた働き方
長女が生まれたとき、妻は体調を大きく崩してしまいました。
その経験があったからこそ、次女の出産に向けてはできるだけ負担のないように心がけました。
出産予定の1ヶ月前から、そして出産後2ヶ月の育休を取ることを決めていました。生命保険の募集人は完全歩合の成果報酬の仕事ですので仕事を休んだとしてもその後のお給料が下がるというデメリットしかなかったですが、この時は妻と産まれてくる子どもを優先したいと強く思っていました。
また、徐々に世の中も男性の育児休暇を推奨する流れになっていました。
仕事はそれなりに順調で、若手から中堅へとキャリアも移り、お客様の数も増え、業績も安定してきました。平日は夕方に仕事を切り上げて長女のお迎え、土日お客様の訪問をしたり営業を続けながら、妻と娘は実家で家族と過ごすという、夫婦それぞれの働き方と子育てのバランスが取れた穏やかな日々でした。
次女の出産予定日は、実際には少し過ぎていたのですが、偶然にも妻の誕生日の翌日に産まれることになります。その前夜、妻の実家で家族みんなに囲まれて誕生日会を開きました。
「まだ産まれないね~」などと言いながら義父に車で送ってもらい、いつも通りの夜を過ごしたました。
翌朝、5時ごろ——「陣痛が来たかも」と妻が言いました。
私はすぐに「陣痛タクシー」を呼び、妻を病院へ送り出しました。
その後は長女(当時2歳半)を保育園に急いで連れて行き、開園時間の7時を待って預け、その足で病院へと向かいました。
到着したのは陣痛がきて病院に向かってから3時間ほど後。
私としては無理をせず、妻が安心して出産に臨めることが第一だと思っていたのですが、どうやら妻は私に出産に立ち会ってほしかったようです。
病院に着くと、分娩室の椅子に座っていた妻が、まるで「遅い!」と言いたげな顔で私を見つめていました。
「大丈夫?」と聞くと、彼女はいつもの顔で「うん、大丈夫」と安心した彼女の表現が印象的でした。
長女のときもスピード出産でしたが、今回も例に漏れず、私が病院に着いてから30分ほどで次女が誕生しました。
やはり、目の前で生まれてくる命には、何とも言えない感動があります。
男性はなにもできないですが、元気な子を産んでくれて本当に感謝しかないですね。
その経験があったからこそ、次女の出産に向けてはできるだけ負担のないように心がけました。
出産予定の1ヶ月前から、そして出産後2ヶ月の育休を取ることを決めていました。生命保険の募集人は完全歩合の成果報酬の仕事ですので仕事を休んだとしてもその後のお給料が下がるというデメリットしかなかったですが、この時は妻と産まれてくる子どもを優先したいと強く思っていました。
また、徐々に世の中も男性の育児休暇を推奨する流れになっていました。
仕事はそれなりに順調で、若手から中堅へとキャリアも移り、お客様の数も増え、業績も安定してきました。平日は夕方に仕事を切り上げて長女のお迎え、土日お客様の訪問をしたり営業を続けながら、妻と娘は実家で家族と過ごすという、夫婦それぞれの働き方と子育てのバランスが取れた穏やかな日々でした。
次女の出産予定日は、実際には少し過ぎていたのですが、偶然にも妻の誕生日の翌日に産まれることになります。その前夜、妻の実家で家族みんなに囲まれて誕生日会を開きました。
「まだ産まれないね~」などと言いながら義父に車で送ってもらい、いつも通りの夜を過ごしたました。
翌朝、5時ごろ——「陣痛が来たかも」と妻が言いました。
私はすぐに「陣痛タクシー」を呼び、妻を病院へ送り出しました。
その後は長女(当時2歳半)を保育園に急いで連れて行き、開園時間の7時を待って預け、その足で病院へと向かいました。
到着したのは陣痛がきて病院に向かってから3時間ほど後。
私としては無理をせず、妻が安心して出産に臨めることが第一だと思っていたのですが、どうやら妻は私に出産に立ち会ってほしかったようです。
病院に着くと、分娩室の椅子に座っていた妻が、まるで「遅い!」と言いたげな顔で私を見つめていました。
「大丈夫?」と聞くと、彼女はいつもの顔で「うん、大丈夫」と安心した彼女の表現が印象的でした。
長女のときもスピード出産でしたが、今回も例に漏れず、私が病院に着いてから30分ほどで次女が誕生しました。
やはり、目の前で生まれてくる命には、何とも言えない感動があります。
男性はなにもできないですが、元気な子を産んでくれて本当に感謝しかないですね。
子どもの名前
出産したのは小さなクリニックでしたが、アットホームな雰囲気で、産後は看護師さんたちが赤ちゃんを見てくれたおかげで、妻もゆっくり休むことができたようです。
数時間後には、義両親や長女も病院に駆けつけ、生まれたばかりの次女と初対面。和やかであたたかい時間が流れていました。
ちょうど「令和元年」の年。私たちは新しい時代の最初の年に生まれた娘に、「和葉(かずは)」という名前を贈りました。令和の平和の「和」、そして優しく柔らかなイメージを込めた「葉」。和やかで、きれいな葉っぱのように人に癒しを与えられる存在になってほしい——そんな願いを込めました。
職業柄、たくさんのお子さんの名付けに触れてきましたが、いざ自分の子となると迷うものです。画数、響き、意味、じっくり考えてたつもりですが結局インスピレーションが強かった気がします。
こうして、我が家に新しい命が加わり、また新たな日々が始まっていきました。
数時間後には、義両親や長女も病院に駆けつけ、生まれたばかりの次女と初対面。和やかであたたかい時間が流れていました。
ちょうど「令和元年」の年。私たちは新しい時代の最初の年に生まれた娘に、「和葉(かずは)」という名前を贈りました。令和の平和の「和」、そして優しく柔らかなイメージを込めた「葉」。和やかで、きれいな葉っぱのように人に癒しを与えられる存在になってほしい——そんな願いを込めました。
職業柄、たくさんのお子さんの名付けに触れてきましたが、いざ自分の子となると迷うものです。画数、響き、意味、じっくり考えてたつもりですが結局インスピレーションが強かった気がします。
こうして、我が家に新しい命が加わり、また新たな日々が始まっていきました。
新居と引っ越し準備
引っ越しに新しい生活へ
長女が生まれてから少しずつ落ち着いてきた頃、妻と子どもたちは実家からアパートに戻ってきました。私としては、2歳半の長女と短い二人暮らしを満喫でき、ますます家族への愛情が深まった実感がありました。
年の瀬が近づいた頃、ついに我が家が完成しました。
引き渡しの日、まだ家具も何もない、まっさらでピカピカの新居を見たときの、あの清々しさと誇らしさは、今でも鮮明に覚えています。
年が明けた2月頃に引っ越しをすることになりましたが、まずは私だけが先に新居へ移り、荷解きや家具の配置、備品の買い出しなど、“家の立ち上げ”を担当しました。まさに“引っ越し前線基地”といった役割です。その間、妻と子どもたちは再び実家にお世話になることになりました。
振り返ってみると、「引っ越しは早めの準備がすべて」だと改めて実感します。
見積もりサイトを使って複数社に引っ越し依頼を出したところ、提示された金額の差に驚かされました。ある業者は16万円、別の業者は30万円と、ほぼ倍の価格差がありました。
子どもがいる家庭では、作業効率や段取り、安全性なども加味して業者を選ぶ必要があります。安すぎる業者でトラブルになるのも嫌だったため、2社ほどに見積もりを依頼し、それ以上は依頼しませんでした。各社とも自宅に来て荷物量を確認し、対面で見積もりを出すという流れでした。
さらに、繁忙期にはそもそも業者の空きがないという事態にもなり得ます。引っ越しは家づくりの仕上げでありながら、最初の関門でもあると感じました。
来てくださった営業や作業スタッフの方々は皆さん丁寧で親切でしたが、やはり準備は早めに動くに越したことはないと思います。
年の瀬が近づいた頃、ついに我が家が完成しました。
引き渡しの日、まだ家具も何もない、まっさらでピカピカの新居を見たときの、あの清々しさと誇らしさは、今でも鮮明に覚えています。
年が明けた2月頃に引っ越しをすることになりましたが、まずは私だけが先に新居へ移り、荷解きや家具の配置、備品の買い出しなど、“家の立ち上げ”を担当しました。まさに“引っ越し前線基地”といった役割です。その間、妻と子どもたちは再び実家にお世話になることになりました。
振り返ってみると、「引っ越しは早めの準備がすべて」だと改めて実感します。
見積もりサイトを使って複数社に引っ越し依頼を出したところ、提示された金額の差に驚かされました。ある業者は16万円、別の業者は30万円と、ほぼ倍の価格差がありました。
子どもがいる家庭では、作業効率や段取り、安全性なども加味して業者を選ぶ必要があります。安すぎる業者でトラブルになるのも嫌だったため、2社ほどに見積もりを依頼し、それ以上は依頼しませんでした。各社とも自宅に来て荷物量を確認し、対面で見積もりを出すという流れでした。
さらに、繁忙期にはそもそも業者の空きがないという事態にもなり得ます。引っ越しは家づくりの仕上げでありながら、最初の関門でもあると感じました。
来てくださった営業や作業スタッフの方々は皆さん丁寧で親切でしたが、やはり準備は早めに動くに越したことはないと思います。
ご挨拶
引っ越しに向けた挨拶回りも、早めに始めました。
建築中にも何度か近隣の方々にご挨拶していましたが、完成後はまず私ひとりで近隣へ改めてご挨拶に回りました。
そして4月には、家族全員で改めて再訪。「明日からこの地で暮らしていきます」という気持ちを込めて、丁寧に頭を下げました。
見知らぬ土地での生活を始めるにあたり、「顔を見せる」というのは、その後の自治会活動や地域の行事などを考えても大事なことだと実感しました。
建築中にも何度か近隣の方々にご挨拶していましたが、完成後はまず私ひとりで近隣へ改めてご挨拶に回りました。
そして4月には、家族全員で改めて再訪。「明日からこの地で暮らしていきます」という気持ちを込めて、丁寧に頭を下げました。
見知らぬ土地での生活を始めるにあたり、「顔を見せる」というのは、その後の自治会活動や地域の行事などを考えても大事なことだと実感しました。
ちょっと後悔・保育園・幼稚園探し!
最大の誤算は、保育園・幼稚園探しでした。
さいたま市の子育て支援課にはなかなか電話がつながらず、夫婦で話し合った結果、認可保育園には入れないかもしれないという不安から、私立幼稚園を探して現地に直接出向くことにしました。
長女は面接にも参加しましたが、その園は「転勤族御用達」として有名な園で、願書の提出も郵送不可、早朝8時から1日限りの受付というスタイルでした。
当日の名簿を見ると、福島県や大阪府など遠方から1泊2日で提出に来る方も多く、現地の熱量に圧倒されました。次女の出産時期と重なりそうでハラハラしましたが、無事に願書を提出できました。
定員はあるものの「ほぼ入れる」と聞いていたので安心感はありましたが、それでも「もっと早く、もっと調べておけばよかった」と反省しました。
さいたま市の子育て支援課にはなかなか電話がつながらず、夫婦で話し合った結果、認可保育園には入れないかもしれないという不安から、私立幼稚園を探して現地に直接出向くことにしました。
長女は面接にも参加しましたが、その園は「転勤族御用達」として有名な園で、願書の提出も郵送不可、早朝8時から1日限りの受付というスタイルでした。
当日の名簿を見ると、福島県や大阪府など遠方から1泊2日で提出に来る方も多く、現地の熱量に圧倒されました。次女の出産時期と重なりそうでハラハラしましたが、無事に願書を提出できました。
定員はあるものの「ほぼ入れる」と聞いていたので安心感はありましたが、それでも「もっと早く、もっと調べておけばよかった」と反省しました。
転居と環境の変化
住み慣れた街を離れて感じたこと
引っ越し前に住んでいた町は、まさに“家族の物語”が始まった場所でした。
長女の誕生、次女の誕生、そして約3年にわたる家族での暮らし。妻の実家にも近く、通勤時間はそれなりにかかりましたが、お互いの職場へ電車1本で通える利便性もありました。徒歩圏内には公園や夏の地域プール、大きなお祭りも頻繁に開催されるなど、子育てにも、仕事にも、夫婦の生活にも恵まれた環境だったと思います。
その町には、たくさんの「はじめて」が詰まっていました。
初めて子どもが熱を出して、慌てて保育園に迎えに行った日。夫婦で交代しながら看病した夜。初めてお弁当を持って家族3人でピクニックに出かけた休日。娘が小さなリュックを背負って保育園に入園した春。
あの頃の私は、まだ親としても未熟で、でも毎日が本当にキラキラしていたように思います。
保育園ではよく風邪をもらってきて、そのたびに有給を使い切ってしまうこともありました。それでも先生方はいつも優しく、私たちにとって大きな支えとなってくれました。
卒園式の日には、先生の言葉に思わず涙がこぼれました。あの園で過ごした日々は、娘だけでなく、親としての私たちにも“成長”を与えてくれたと感じています。
いざ引っ越しの準備を始めてみると、家の中には思い出があふれていました。
実家から持ってきたタンス、就職活動のときに着ていたコート、新卒で買った鞄。先輩や友人から譲り受けた家具たち。
何もなかったあの頃、少しずつ集めてきた“モノ”が、今の生活の土台を支えてくれていたのだと気づきました。
新しい家には大型の収納があり、間取りも変わります。タンスはもう置き場所がなく、クローゼットがあれば必要ありません。久しぶりに開けた古いタンスには、おばあちゃんに買ってもらった懐かしい品が入っていました。
「社会人になったとき、なんでこんなものを持ってきたんだろう」と懐かしい気持ちになりながら、古い写真をめくってしばし思い出に浸りました。
そのタンスはまるで、「もう役目を終えたよ」と私に語りかけているようでした。
「ありがとう」と心の中でつぶやきながら、ひとつひとつ手放していきました。
持っていくもの、手放すものを選びながら、ただ物を整理するだけでなく、心の整理も進んでいきます。
捨てるのではなく、“卒業する”という感覚でした。
結婚式の写真、家族の笑顔が写ったアルバム、娘の描いた絵。
これらは新しい家の“見えるところ”に飾ろうと思い、大切に段ボールに詰めました。
そして迎えた引っ越しの日。
業者が到着し、荷物がすべて運び出されたあとの部屋は、がらんとしていました。
けれどその空間には、私たち家族が過ごしてきた“温度”が、たしかに残っていたように感じました。
家具を入れたときに付けてしまった傷、娘のおもちゃ箱が置いてあった場所の日焼け跡、カーテン越しに差し込む午後の光、娘が歩き回ってできたフローリングの小さな傷、笑い声が響いていたリビング——
私はしばらく立ち尽くし、静かに深呼吸をしました。
「あぁ、本当に、いい時間を過ごしてきたな」と。
この引っ越しは、新しい暮らしへの期待だけでなく、大切な時間にひとつの“区切り”をつける旅立ちでもありました。
長女の誕生、次女の誕生、そして約3年にわたる家族での暮らし。妻の実家にも近く、通勤時間はそれなりにかかりましたが、お互いの職場へ電車1本で通える利便性もありました。徒歩圏内には公園や夏の地域プール、大きなお祭りも頻繁に開催されるなど、子育てにも、仕事にも、夫婦の生活にも恵まれた環境だったと思います。
その町には、たくさんの「はじめて」が詰まっていました。
初めて子どもが熱を出して、慌てて保育園に迎えに行った日。夫婦で交代しながら看病した夜。初めてお弁当を持って家族3人でピクニックに出かけた休日。娘が小さなリュックを背負って保育園に入園した春。
あの頃の私は、まだ親としても未熟で、でも毎日が本当にキラキラしていたように思います。
保育園ではよく風邪をもらってきて、そのたびに有給を使い切ってしまうこともありました。それでも先生方はいつも優しく、私たちにとって大きな支えとなってくれました。
卒園式の日には、先生の言葉に思わず涙がこぼれました。あの園で過ごした日々は、娘だけでなく、親としての私たちにも“成長”を与えてくれたと感じています。
いざ引っ越しの準備を始めてみると、家の中には思い出があふれていました。
実家から持ってきたタンス、就職活動のときに着ていたコート、新卒で買った鞄。先輩や友人から譲り受けた家具たち。
何もなかったあの頃、少しずつ集めてきた“モノ”が、今の生活の土台を支えてくれていたのだと気づきました。
新しい家には大型の収納があり、間取りも変わります。タンスはもう置き場所がなく、クローゼットがあれば必要ありません。久しぶりに開けた古いタンスには、おばあちゃんに買ってもらった懐かしい品が入っていました。
「社会人になったとき、なんでこんなものを持ってきたんだろう」と懐かしい気持ちになりながら、古い写真をめくってしばし思い出に浸りました。
そのタンスはまるで、「もう役目を終えたよ」と私に語りかけているようでした。
「ありがとう」と心の中でつぶやきながら、ひとつひとつ手放していきました。
持っていくもの、手放すものを選びながら、ただ物を整理するだけでなく、心の整理も進んでいきます。
捨てるのではなく、“卒業する”という感覚でした。
結婚式の写真、家族の笑顔が写ったアルバム、娘の描いた絵。
これらは新しい家の“見えるところ”に飾ろうと思い、大切に段ボールに詰めました。
そして迎えた引っ越しの日。
業者が到着し、荷物がすべて運び出されたあとの部屋は、がらんとしていました。
けれどその空間には、私たち家族が過ごしてきた“温度”が、たしかに残っていたように感じました。
家具を入れたときに付けてしまった傷、娘のおもちゃ箱が置いてあった場所の日焼け跡、カーテン越しに差し込む午後の光、娘が歩き回ってできたフローリングの小さな傷、笑い声が響いていたリビング——
私はしばらく立ち尽くし、静かに深呼吸をしました。
「あぁ、本当に、いい時間を過ごしてきたな」と。
この引っ越しは、新しい暮らしへの期待だけでなく、大切な時間にひとつの“区切り”をつける旅立ちでもありました。
単身での新生
家族が来る前に整えた住まい
第4章:先に引っ越し、夫の単身準備期間
引っ越しの荷物が整理されたあと、私は家族より一足先に新居へと移り住みました。
季節は真冬の1月。夜は底冷えするような寒さで、新しい家に初めて泊まった夜は、まだベッドはなく、とりあえずだしてきた布団と寝袋で眠ったことをよく覚えています。
けれど、引っ越しで搬入された山積みの段ボールの中に木の香りがほんのり漂い、「あぁ、ついに自分の家ができたんだな」と実感が込み上げてきました。
翌日からは、ネットで注文していたベッドやテーブル、ソファーが次々と届き、少しずつ家の中が“我が家”らしくなっていくのが嬉しくてたまりませんでした。
玄関を開けたときにふわっと香る新築の匂い。家具がひとつ運び込まれるたびに、これからの生活が目に浮かび、ワクワクした気持ちになりました。
まだ土地勘のない街だったので、ホームセンターや家具屋、中古の生活雑貨店などを調べて、足りないものを買い揃えました。
新しい土地での暮らしを、まるで冒険のように楽しんでいたと思います。
ひとりの時間だったからこそ、自分の好みにレイアウトできたのも楽しい作業でした。
リビングの家具配置、書斎の棚の設置、そしてサッカー好きな私は、応援しているチームのユニフォームやサイン入りグッズを玄関に飾ることにしました。
……しかし後日、家族が引っ越してきた際に「なんで勝手に決めたの!」と妻に怒られてしまったのは言うまでもありません。
もちろん、翌月のクレジットカードの明細で“爆買い”の現実を突きつけられました。
引っ越しの荷物が整理されたあと、私は家族より一足先に新居へと移り住みました。
季節は真冬の1月。夜は底冷えするような寒さで、新しい家に初めて泊まった夜は、まだベッドはなく、とりあえずだしてきた布団と寝袋で眠ったことをよく覚えています。
けれど、引っ越しで搬入された山積みの段ボールの中に木の香りがほんのり漂い、「あぁ、ついに自分の家ができたんだな」と実感が込み上げてきました。
翌日からは、ネットで注文していたベッドやテーブル、ソファーが次々と届き、少しずつ家の中が“我が家”らしくなっていくのが嬉しくてたまりませんでした。
玄関を開けたときにふわっと香る新築の匂い。家具がひとつ運び込まれるたびに、これからの生活が目に浮かび、ワクワクした気持ちになりました。
まだ土地勘のない街だったので、ホームセンターや家具屋、中古の生活雑貨店などを調べて、足りないものを買い揃えました。
新しい土地での暮らしを、まるで冒険のように楽しんでいたと思います。
ひとりの時間だったからこそ、自分の好みにレイアウトできたのも楽しい作業でした。
リビングの家具配置、書斎の棚の設置、そしてサッカー好きな私は、応援しているチームのユニフォームやサイン入りグッズを玄関に飾ることにしました。
……しかし後日、家族が引っ越してきた際に「なんで勝手に決めたの!」と妻に怒られてしまったのは言うまでもありません。
もちろん、翌月のクレジットカードの明細で“爆買い”の現実を突きつけられました。
家に付けて良かったもの
新しい家に付けてよかったのは「自動シャッター」でした。
1階には寝室や書斎があり、隣家との距離も近いため、プライバシーと防犯の両面でとても安心できました。
賃貸アパート時代とは異なり、戸建ての1階での暮らしでは“外の目線”を意識せざるを得ません。こうした環境の変化も、実際に住んでみて初めて気づくことなのだと実感しました。
他にも意外と便利だったのが「水場の配置」です。
外の自転車置き場付近や、2階リビングのベランダに設置された蛇口は、子どもの上履きを洗ったり、金魚の水替えや車の洗車、汚れたものの洗浄にとても重宝しています。
子どもが生き物好きということもあり、玄関やリビングに水槽を置くようになりました。観賞用としても楽しく、子どもとの会話のきっかけにもなっていて、今では家族の癒やしの空間になっています。
設計段階では予算の都合で軽視しがちな、こうした“ちょっとした工夫”こそが、実際の暮らしやすさに直結しているのだと実感しました。
1階には寝室や書斎があり、隣家との距離も近いため、プライバシーと防犯の両面でとても安心できました。
賃貸アパート時代とは異なり、戸建ての1階での暮らしでは“外の目線”を意識せざるを得ません。こうした環境の変化も、実際に住んでみて初めて気づくことなのだと実感しました。
他にも意外と便利だったのが「水場の配置」です。
外の自転車置き場付近や、2階リビングのベランダに設置された蛇口は、子どもの上履きを洗ったり、金魚の水替えや車の洗車、汚れたものの洗浄にとても重宝しています。
子どもが生き物好きということもあり、玄関やリビングに水槽を置くようになりました。観賞用としても楽しく、子どもとの会話のきっかけにもなっていて、今では家族の癒やしの空間になっています。
設計段階では予算の都合で軽視しがちな、こうした“ちょっとした工夫”こそが、実際の暮らしやすさに直結しているのだと実感しました。
ちょっと失敗したもの
一方で、少し不便に感じたのが「コンセントの位置」でした。
テレワークでパソコンを使用する今の時代、電源の配置や数はとても重要ですが、あまり使わない場所にあっても意味がないし、必要な場所に足りないこともあります。
このあたりは、実際に生活してみないと分からない点だと思います。暮らしながら、住まいに求める機能も少しずつ変化していくのだと気づかされました。
将来的には、太陽光パネルや蓄電池の設置も検討しています。
屋根が広く、日当たりも良いため、光熱費の高騰に備える意味でも、住宅ローンの借り換えなどを活用しながら住まいをアップデートしていけたらと考えています。
建築資材の価格はインフレの影響で年々高騰しており、今となっては当時と同じ金額で同じ家を建てるのは難しくなっています。
だからこそ、ライフプランを見据えて、将来的に部屋数を変更できるような間取りにしておくことの重要性を強く感じます。
この“単身準備期間”は、わずか2週間ほどでしたが、毎日が本当に楽しくて仕方がありませんでした。
掃除をしたり、家具を組み立てたり、新しい街を歩き回ったり——。
「これからこの場所で、どんな日々が待っているのだろう」と、家族の合流が待ち遠しくてたまりませんでした。
テレワークでパソコンを使用する今の時代、電源の配置や数はとても重要ですが、あまり使わない場所にあっても意味がないし、必要な場所に足りないこともあります。
このあたりは、実際に生活してみないと分からない点だと思います。暮らしながら、住まいに求める機能も少しずつ変化していくのだと気づかされました。
将来的には、太陽光パネルや蓄電池の設置も検討しています。
屋根が広く、日当たりも良いため、光熱費の高騰に備える意味でも、住宅ローンの借り換えなどを活用しながら住まいをアップデートしていけたらと考えています。
建築資材の価格はインフレの影響で年々高騰しており、今となっては当時と同じ金額で同じ家を建てるのは難しくなっています。
だからこそ、ライフプランを見据えて、将来的に部屋数を変更できるような間取りにしておくことの重要性を強く感じます。
この“単身準備期間”は、わずか2週間ほどでしたが、毎日が本当に楽しくて仕方がありませんでした。
掃除をしたり、家具を組み立てたり、新しい街を歩き回ったり——。
「これからこの場所で、どんな日々が待っているのだろう」と、家族の合流が待ち遠しくてたまりませんでした。
コロナと育児・仕事
新生活とコロナ禍の混乱と模索
引っ越しが終わり、家族全員で新居での生活が始まった4月。
ようやく家が完成し、次女も誕生して、「ここから新しい暮らしが始まる」と気持ちを新たにしていた矢先、政府から「緊急事態宣言」が発令され、私たちの生活は一変しました。
当初は、ここまで大事になるとは思っておらず、
「冬によく流行るインフルエンザのようなものだろう」くらいにしか考えていませんでした。
しかし、時間が経つにつれて状況は急速に変化。
3月には会社から「営業の自粛」が正式に通達され、対面営業は原則禁止に。出社も制限され、会議はすべてTeamsやZoomなどのオンライン形式に切り替えられました。
保険営業という仕事は、基本的に「外に出て、お客様と会う」ことがベースです。
対面営業ができないということは、すなわち報酬が止まることを意味します。これまで築いてきた営業スタイルが、音を立てて崩れていくような感覚を覚えました。
それでも、生活は待ってくれません。
長女は4月から幼稚園に入園。通常であれば午後にはお迎えですが、我が家は延長保育を利用し、夕方まで預かっていただいていました。
クラスで延長保育を利用していたのはうちだけだったようで、ほぼマンツーマンのような時間を先生と過ごしていたと聞いています。
次女は生後4ヶ月で保育園に通い始めましたが、園内で感染者が出たため、何度も突然の休園に見舞われました。
4月のうちに登園できたのはわずか半分ほど。
生後数ヶ月という時期に未知のウイルスは恐怖できたない、保育園としても苦肉の休園だのでしょう。
ようやく家が完成し、次女も誕生して、「ここから新しい暮らしが始まる」と気持ちを新たにしていた矢先、政府から「緊急事態宣言」が発令され、私たちの生活は一変しました。
当初は、ここまで大事になるとは思っておらず、
「冬によく流行るインフルエンザのようなものだろう」くらいにしか考えていませんでした。
しかし、時間が経つにつれて状況は急速に変化。
3月には会社から「営業の自粛」が正式に通達され、対面営業は原則禁止に。出社も制限され、会議はすべてTeamsやZoomなどのオンライン形式に切り替えられました。
保険営業という仕事は、基本的に「外に出て、お客様と会う」ことがベースです。
対面営業ができないということは、すなわち報酬が止まることを意味します。これまで築いてきた営業スタイルが、音を立てて崩れていくような感覚を覚えました。
それでも、生活は待ってくれません。
長女は4月から幼稚園に入園。通常であれば午後にはお迎えですが、我が家は延長保育を利用し、夕方まで預かっていただいていました。
クラスで延長保育を利用していたのはうちだけだったようで、ほぼマンツーマンのような時間を先生と過ごしていたと聞いています。
次女は生後4ヶ月で保育園に通い始めましたが、園内で感染者が出たため、何度も突然の休園に見舞われました。
4月のうちに登園できたのはわずか半分ほど。
生後数ヶ月という時期に未知のウイルスは恐怖できたない、保育園としても苦肉の休園だのでしょう。
コロナ禍での新居は何よりも救い
子どもたちが自宅にいる日が続く中、仕事と育児の両立は想像以上に困難になっていきました。
さらに、妻は半年間の育休を経て、このタイミングで公務員を退職したばかり。家庭の収入は私ひとりという状況になるのも分かっていました。
先の見えない社会の動きに、不安を感じていたのは私だけではなかったでしょう。
それでも、そんな中で「この家を建てて本当によかった」と思える瞬間は何度もありました。
外出が制限されるなかでも、新築の広い空間で過ごせることは本当にありがたいことでした。
以前の2DKの賃貸で自粛生活を送っていたら…と思うと、あのタイミングで引っ越しができてよかったと心から思います。
また、自転車で長女を乗せて公園を巡ったり、新しい町を一緒に探索したりと、毎日のように外で遊びながら彼女の成長を間近で感じられた時間は、私にとってかけがえのない宝物です。
さらに、妻は半年間の育休を経て、このタイミングで公務員を退職したばかり。家庭の収入は私ひとりという状況になるのも分かっていました。
先の見えない社会の動きに、不安を感じていたのは私だけではなかったでしょう。
それでも、そんな中で「この家を建てて本当によかった」と思える瞬間は何度もありました。
外出が制限されるなかでも、新築の広い空間で過ごせることは本当にありがたいことでした。
以前の2DKの賃貸で自粛生活を送っていたら…と思うと、あのタイミングで引っ越しができてよかったと心から思います。
また、自転車で長女を乗せて公園を巡ったり、新しい町を一緒に探索したりと、毎日のように外で遊びながら彼女の成長を間近で感じられた時間は、私にとってかけがえのない宝物です。
YOUTUBE制作ははじめる
社会の変化も、日々肌で感じていました。
オンライン会議の急速な普及、YouTubeなどの動画を使った情報発信…。
それまで資産形成の相談は「FPに直接相談して一緒に考える」ことが当たり前でしたが、一気に「自分で情報を調べて、自分で決める」時代にシフトしていくのを目の当たりにしました。
「このまま何もしなければ、取り残されてしまうかもしれない」
そう感じた私たち夫婦は、新しいことに挑戦してみることにしました。
そこで挑戦したのがYouTubeでの動画配信です。
幸いにも、前年の営業成績に応じた報酬がソニー生命から支給されていたため、すぐに生活が苦しくなるような状況ではありませんでした。
むしろ、「今しかできないことをやろう」と前向きに捉え、動画編集やマーケティングの基礎を学びながら、少しずつコンテンツ制作に取り組みました。
私たちが投稿したのは、妻が管理栄養士としての知識を活かし、生後半年の次女に離乳食食べさせながらその進め方・食べ方を解説する動画でした。
収益はほとんど出ませんでしたが、得た知識や経験は、今の仕事やブログ制作にも大いに役立っています。
コロナという異常な日々の中で、動画づくりは私たちにとって“前を向くための支え”になったことは間違いありません。
オンライン会議の急速な普及、YouTubeなどの動画を使った情報発信…。
それまで資産形成の相談は「FPに直接相談して一緒に考える」ことが当たり前でしたが、一気に「自分で情報を調べて、自分で決める」時代にシフトしていくのを目の当たりにしました。
「このまま何もしなければ、取り残されてしまうかもしれない」
そう感じた私たち夫婦は、新しいことに挑戦してみることにしました。
そこで挑戦したのがYouTubeでの動画配信です。
幸いにも、前年の営業成績に応じた報酬がソニー生命から支給されていたため、すぐに生活が苦しくなるような状況ではありませんでした。
むしろ、「今しかできないことをやろう」と前向きに捉え、動画編集やマーケティングの基礎を学びながら、少しずつコンテンツ制作に取り組みました。
私たちが投稿したのは、妻が管理栄養士としての知識を活かし、生後半年の次女に離乳食食べさせながらその進め方・食べ方を解説する動画でした。
収益はほとんど出ませんでしたが、得た知識や経験は、今の仕事やブログ制作にも大いに役立っています。
コロナという異常な日々の中で、動画づくりは私たちにとって“前を向くための支え”になったことは間違いありません。
時代の変化と葛藤
そんな日々の中、私は次第に「今の会社に、このまま居続けていいのだろうか」という疑問を抱くようになりました。
保険だけではカバーできない相談が増え、NISAやiDeCo、投資信託といった制度が当たり前になる時代において、もっと自由に・正しく・広くお客様をサポートできる働き方があるのではないかと考え始めたのです。
生命保険の販売は10年のキャリアがあるので軸として続け、意識するようになったのが、「IFA(独立系ファイナンシャルアドバイザー)」という新しい働き方でした。生命保険だけでなく証券や債券、NISA、投資信託なども自ら販売できるようになればお客様の問題解決に更に役立てると思いました。
とはいえ、簡単な決断ではありませんでした。
家は建てたばかりで、住宅ローンも始まったばかり。子どもは2人、妻はほぼ無収入。
安定を手放すということは、大きなリスクを伴います。不安も恐れも当然ありました。
それでも、自粛期間を活用してYouTubeに取り組みながら、私は証券外務員の資格を取得し、少しずつ転職の準備を進めていきました。
転職といっても、大きく業種を変えるわけではなく、生命保険の分野ではソニー生命(専属)から、複数社を取り扱える「乗合代理店」へ移籍するという形です。
同時に、IFAとして活動できる代理店に所属することも視野に入れていました。
ここはつてがあったのでスムーズに在籍させてもらう事となりました。
乗合代理店への転職活動では、いくつかの会社に面接を受け、すべて内定をいただきました。
10年間のキャリアがあることで業界からは一定の評価はされたのだと思います。
保険だけではカバーできない相談が増え、NISAやiDeCo、投資信託といった制度が当たり前になる時代において、もっと自由に・正しく・広くお客様をサポートできる働き方があるのではないかと考え始めたのです。
生命保険の販売は10年のキャリアがあるので軸として続け、意識するようになったのが、「IFA(独立系ファイナンシャルアドバイザー)」という新しい働き方でした。生命保険だけでなく証券や債券、NISA、投資信託なども自ら販売できるようになればお客様の問題解決に更に役立てると思いました。
とはいえ、簡単な決断ではありませんでした。
家は建てたばかりで、住宅ローンも始まったばかり。子どもは2人、妻はほぼ無収入。
安定を手放すということは、大きなリスクを伴います。不安も恐れも当然ありました。
それでも、自粛期間を活用してYouTubeに取り組みながら、私は証券外務員の資格を取得し、少しずつ転職の準備を進めていきました。
転職といっても、大きく業種を変えるわけではなく、生命保険の分野ではソニー生命(専属)から、複数社を取り扱える「乗合代理店」へ移籍するという形です。
同時に、IFAとして活動できる代理店に所属することも視野に入れていました。
ここはつてがあったのでスムーズに在籍させてもらう事となりました。
乗合代理店への転職活動では、いくつかの会社に面接を受け、すべて内定をいただきました。
10年間のキャリアがあることで業界からは一定の評価はされたのだと思います。
10年勤めた会社を辞めるという決断
転職の決めて
しかし、会社の雰囲気や通勤距離を考えると、どうしても「ここだ」と思える場所に出会えずにいました。
そんなとき、偶然自宅から自転車で5分ほどの場所にある乗合代理店を見つけ、思い切って電話をかけて面接の予約を取りました。
不安と期待が入り混じる中で訪れたその会社では、出迎えてくれたのが、元ソニー生命出身の支店長でした。
話のテンポや考え方にも共感できる部分が多く、「ここなら、理想の働き方が実現できるかもしれない」と自然に思えたのです。
自宅に戻り、その話を妻にすると、「近いし、いいじゃない」と、あっさり背中を押してくれました。
その一言を聞いた瞬間、「ついに、10年働いたソニー生命を卒業するんだ」と、自分の中でも腹が決まったのを覚えています。
そんなとき、偶然自宅から自転車で5分ほどの場所にある乗合代理店を見つけ、思い切って電話をかけて面接の予約を取りました。
不安と期待が入り混じる中で訪れたその会社では、出迎えてくれたのが、元ソニー生命出身の支店長でした。
話のテンポや考え方にも共感できる部分が多く、「ここなら、理想の働き方が実現できるかもしれない」と自然に思えたのです。
自宅に戻り、その話を妻にすると、「近いし、いいじゃない」と、あっさり背中を押してくれました。
その一言を聞いた瞬間、「ついに、10年働いたソニー生命を卒業するんだ」と、自分の中でも腹が決まったのを覚えています。
10年という時間
私がソニー生命に入社したのは2012年4月のことでした。
当時配属されたのは、若手育成を目的とした特別な部署。20代のみが採用される環境で、完全歩合制という厳しさもありましたが、「自分の力で切り開いていく営業スタイル」に強く惹かれ、飛び込むことを決意しました。
現実は想像以上に厳しいものでした。入社から10年の間、同じ部署に配属された同期は半年、長くても2年ほどでほとんどが退職していきました。ノルマを達成できず、あるいは心が折れてしまう仲間を何人も見送りました。今振り返ると、非常にハードでブラックな一面もあったと感じます。けれども、だからこそ身についたものもありました。自分で考え、動き、成果を出す。その基礎体力のようなものは、確かにあの場所で鍛えられたと思います。
その後、基準をクリアして希望していた埼玉エリアへの異動が叶いました。
2015年からはさいたま市の大きな支店で働くことができ、年齢もさまざまな方と一緒に働く環境に身を置くことができました。
それまでの3年間は、情報も少ない中でノルマに追われる日々でしたが、外の部署に出てみると、「あれ? 意外とこんなもんなの?」拍子抜けしたと感じたのを覚えています。
ある意味、緊張感が抜け、少し気が緩んだ部分もあったのかもしれません。
その後は徐々に知識や経験が積み重なり、お客様との会話にも余裕が生まれました。
信頼をいただけるようになり、紹介も自然と増え、営業としてのスキルが少しずつ磨かれていく実感もありました。「これからもこのペースでいけばやっていけるだろう」と、どこか慢心のような感情があったのも事実です。
当時配属されたのは、若手育成を目的とした特別な部署。20代のみが採用される環境で、完全歩合制という厳しさもありましたが、「自分の力で切り開いていく営業スタイル」に強く惹かれ、飛び込むことを決意しました。
現実は想像以上に厳しいものでした。入社から10年の間、同じ部署に配属された同期は半年、長くても2年ほどでほとんどが退職していきました。ノルマを達成できず、あるいは心が折れてしまう仲間を何人も見送りました。今振り返ると、非常にハードでブラックな一面もあったと感じます。けれども、だからこそ身についたものもありました。自分で考え、動き、成果を出す。その基礎体力のようなものは、確かにあの場所で鍛えられたと思います。
その後、基準をクリアして希望していた埼玉エリアへの異動が叶いました。
2015年からはさいたま市の大きな支店で働くことができ、年齢もさまざまな方と一緒に働く環境に身を置くことができました。
それまでの3年間は、情報も少ない中でノルマに追われる日々でしたが、外の部署に出てみると、「あれ? 意外とこんなもんなの?」拍子抜けしたと感じたのを覚えています。
ある意味、緊張感が抜け、少し気が緩んだ部分もあったのかもしれません。
その後は徐々に知識や経験が積み重なり、お客様との会話にも余裕が生まれました。
信頼をいただけるようになり、紹介も自然と増え、営業としてのスキルが少しずつ磨かれていく実感もありました。「これからもこのペースでいけばやっていけるだろう」と、どこか慢心のような感情があったのも事実です。
時代の変化
けれども、時代は静かに、でも確実に変わっていきました。
面談先では、「保険だけじゃなく、株や投資信託やNISA・iDeCoの話も聞きたい」と言われることが増えました。「YouTubeでこの商品見ましたけど、どうなんですか?」という質問も珍しくなくなりました。
10年前であれば、私たちFPの提案に真剣に耳を傾け、信頼して任せてくださったような内容が、今では決まらなくなってきている。
情報の主導権が、明らかに営業マンからお客様に移っていっていることを痛感しました。
「このままでいいのだろうか」
「自分自身が変わらなければ、この先は通用しないかもしれない」
そう感じるようになったのは、コロナ禍で社会全体がリモートにシフトしていく中でした。
オンラインの面談が増え、情報もスピードも求められる中で、私一社専属の保険営業の限界を感じと証券外務員の資格を取得し、「保険の乗り合い代理店とIFAの2足の草鞋で新たな道に進む」という決意を固めていきました。
退職の報告をしたとき、当時の営業所の皆さんは本当に温かく見送ってくださいました。ネクタイやボールペンなど、心のこもった贈り物もいただき、「本当に良い仲間に恵まれていたな」と胸が熱くなりました。
オンラインではありましたが、若手営業マンだけのささやかな送別会も開いていただき、これまでの10年間を労ってもらえる時間を過ごすことができました。
本当に感謝です。
退職しても、「やること自体は大きくは変わらない」ということです。
お客様と向き合い、課題を伺い、最適な提案をし、契約後も継続的にフォローをする――その基本は変わりません。
ただ、私の中で変わったのは、「責任の重さ」と「選択肢の広さ」でした。
独身の頃のように、がむしゃらに数字だけを追いかけるのではなく、家族を守りながら、より本質的な提案をしていくこと。
そして、お客様にとってベストな選択をするために、保険という枠にとらわれず、投資や資産形成など幅広い知識を備えておく必要があるということ。
そうした“生きた実感”が、自分自身の成長にもつながっていると感じています。
面談先では、「保険だけじゃなく、株や投資信託やNISA・iDeCoの話も聞きたい」と言われることが増えました。「YouTubeでこの商品見ましたけど、どうなんですか?」という質問も珍しくなくなりました。
10年前であれば、私たちFPの提案に真剣に耳を傾け、信頼して任せてくださったような内容が、今では決まらなくなってきている。
情報の主導権が、明らかに営業マンからお客様に移っていっていることを痛感しました。
「このままでいいのだろうか」
「自分自身が変わらなければ、この先は通用しないかもしれない」
そう感じるようになったのは、コロナ禍で社会全体がリモートにシフトしていく中でした。
オンラインの面談が増え、情報もスピードも求められる中で、私一社専属の保険営業の限界を感じと証券外務員の資格を取得し、「保険の乗り合い代理店とIFAの2足の草鞋で新たな道に進む」という決意を固めていきました。
退職の報告をしたとき、当時の営業所の皆さんは本当に温かく見送ってくださいました。ネクタイやボールペンなど、心のこもった贈り物もいただき、「本当に良い仲間に恵まれていたな」と胸が熱くなりました。
オンラインではありましたが、若手営業マンだけのささやかな送別会も開いていただき、これまでの10年間を労ってもらえる時間を過ごすことができました。
本当に感謝です。
退職しても、「やること自体は大きくは変わらない」ということです。
お客様と向き合い、課題を伺い、最適な提案をし、契約後も継続的にフォローをする――その基本は変わりません。
ただ、私の中で変わったのは、「責任の重さ」と「選択肢の広さ」でした。
独身の頃のように、がむしゃらに数字だけを追いかけるのではなく、家族を守りながら、より本質的な提案をしていくこと。
そして、お客様にとってベストな選択をするために、保険という枠にとらわれず、投資や資産形成など幅広い知識を備えておく必要があるということ。
そうした“生きた実感”が、自分自身の成長にもつながっていると感じています。
家族とともに築く“これから
家族5人での新しい生活と働き
転職といっても、私の仕事がまったくの異業種に変わったわけではありません。
ソニー生命という一社専属の営業から、複数の保険会社を扱う乗合代理店に移ったことで、取り扱える商品が一気に増えた。──それが、最大の変化でした。
ただ、その変化の大きさには、正直驚かされました。
「業界に10年いたのに、こんなにも知らない商品があるのか」
そう思わず目を見張るような世界が、目の前に広がっていたのです。
生命保険だけでなく、損害保険も扱うようになり、商品やシステム、さらには求められる資格までもが一気に増えました。
今まで当たり前に使っていたツールも変わり、毎日が学びの連続。何年も積み重ねたつもりだった経験が、いったんリセットされるような感覚に陥ることもありました。
また、これまでご契約いただいていたソニー生命のお客様に、転職後改めてご挨拶に伺うことには、どこか気が引ける気持ちもありました。
けれど、「たくさんの商品を扱えるようになった今、自分にできることが増えた」と思えるようになったことで、その不安に背中を押してもらいました。
武器が増えるということは、こんなにも心強いのか──と実感した瞬間でした。
「さらに自分の力をもっと磨かなければ」
そう前向きに思えるようになったのです。
ソニー生命という一社専属の営業から、複数の保険会社を扱う乗合代理店に移ったことで、取り扱える商品が一気に増えた。──それが、最大の変化でした。
ただ、その変化の大きさには、正直驚かされました。
「業界に10年いたのに、こんなにも知らない商品があるのか」
そう思わず目を見張るような世界が、目の前に広がっていたのです。
生命保険だけでなく、損害保険も扱うようになり、商品やシステム、さらには求められる資格までもが一気に増えました。
今まで当たり前に使っていたツールも変わり、毎日が学びの連続。何年も積み重ねたつもりだった経験が、いったんリセットされるような感覚に陥ることもありました。
また、これまでご契約いただいていたソニー生命のお客様に、転職後改めてご挨拶に伺うことには、どこか気が引ける気持ちもありました。
けれど、「たくさんの商品を扱えるようになった今、自分にできることが増えた」と思えるようになったことで、その不安に背中を押してもらいました。
武器が増えるということは、こんなにも心強いのか──と実感した瞬間でした。
「さらに自分の力をもっと磨かなければ」
そう前向きに思えるようになったのです。
妻の働き方
そんな私の転機と歩調を合わせるように、妻にも変化が訪れました。
YouTubeでの情報発信をしながら、育児に専念していた彼女は、次第に「また外で働きたい」と感じるようになっていたようです。
社会人になってからずっと働き続けてきた彼女にとって、1年にわたる“家庭中心”の生活は、ちょうど一区切りだったのかもしれません。
そんなタイミングで舞い込んできたのが、実弟が始めた障がい者グループホームの立ち上げ話でした。
「事務や支援を手伝ってほしい」という声かけに、妻は自然と応じていきました。
最初は在宅での事務作業が中心でしたが、やがて夜勤もこなすようになり、家庭内の役割分担も再び動き出していきました。
私の働き方もまた、柔軟に変化していきました。
自宅から自転車で5分という営業所のおかげで、書類提出や受け取りがすぐにでき、業務効率は格段に向上。
お客様とのやり取りも基本的にオンラインで完結できるようになり、「問題解決型の営業」という、自分が理想としていた働き方に近づいてきたと実感しています。
YouTubeでの情報発信をしながら、育児に専念していた彼女は、次第に「また外で働きたい」と感じるようになっていたようです。
社会人になってからずっと働き続けてきた彼女にとって、1年にわたる“家庭中心”の生活は、ちょうど一区切りだったのかもしれません。
そんなタイミングで舞い込んできたのが、実弟が始めた障がい者グループホームの立ち上げ話でした。
「事務や支援を手伝ってほしい」という声かけに、妻は自然と応じていきました。
最初は在宅での事務作業が中心でしたが、やがて夜勤もこなすようになり、家庭内の役割分担も再び動き出していきました。
私の働き方もまた、柔軟に変化していきました。
自宅から自転車で5分という営業所のおかげで、書類提出や受け取りがすぐにでき、業務効率は格段に向上。
お客様とのやり取りも基本的にオンラインで完結できるようになり、「問題解決型の営業」という、自分が理想としていた働き方に近づいてきたと実感しています。
日々の生活と今
毎日の生活は、まさに“家族とともに回っている”という感覚でした。
朝、次女を保育園へ送り、その足で長女を幼稚園へ。
日中はオンラインでの商談や事務作業。必要があれば、自転車で営業所へ。
夕方17時には長女を迎えに行き、その後次女を迎えに行く。
晩ごはんは妻が用意してくれていて、私が娘たちをお風呂に入れたあと、3人で食卓を囲みます。
少し遅れて仕事を終えた妻が帰宅する──そんな日々のサイクルが、自然と整っていきました。
生活のリズムも、家族の形も、自分たちにとって非常に理想的な形になったと感じています。
ただし、理想にはコストが伴います。
報酬面では、ソニー生命時代と比べて大きく下がりました。
ここからどう巻き返していくかが、今後の課題であることも確かです。
________________________________________
あれから数年が経ちました。
生活は少しずつ安定し、自分なりのワークスタイルも確立されてきました。
法人を設立し、登録手続きを進めたり、新しい資格に挑戦したり。
振り返れば、10年前の自分には想像もできなかった日々を、今私は歩んでいます。
「止まらずにもがき続けること」
どれだけしんどくても、動くことをやめなければ、必ず何かが変わる。
そう思えるようになったのは、間違いなく、あの苦しい時期があったからです。
その後、息子が誕生し、子どもは3人になりました。
家庭はさらに賑やかになり、子育てと仕事のバランスは一層難しくなりました。
仕事と育児のストレスから全身に蕁麻疹が出たこともありましたが、今となっては、それすら「全力で生きていた証」として前向きに捉えられています。
________________________________________
今、私が大切にしている価値観は、とてもシンプルです。
「お金」や「資産」ももちろん大事。
でもそれ以上に、「今しかできないこと」を大切にしていきたいと思っています。
子どもととことん遊ぶこと。
家族と深く関わること。
そして、自分自身もチャレンジを続けること。
大人になっても、夢中になれることがある人生を。
失敗しても、動きながら考え続ける人生を。
そんな“等身大”の人生を、これからも家族とともに築いていきたいと思います。
朝、次女を保育園へ送り、その足で長女を幼稚園へ。
日中はオンラインでの商談や事務作業。必要があれば、自転車で営業所へ。
夕方17時には長女を迎えに行き、その後次女を迎えに行く。
晩ごはんは妻が用意してくれていて、私が娘たちをお風呂に入れたあと、3人で食卓を囲みます。
少し遅れて仕事を終えた妻が帰宅する──そんな日々のサイクルが、自然と整っていきました。
生活のリズムも、家族の形も、自分たちにとって非常に理想的な形になったと感じています。
ただし、理想にはコストが伴います。
報酬面では、ソニー生命時代と比べて大きく下がりました。
ここからどう巻き返していくかが、今後の課題であることも確かです。
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あれから数年が経ちました。
生活は少しずつ安定し、自分なりのワークスタイルも確立されてきました。
法人を設立し、登録手続きを進めたり、新しい資格に挑戦したり。
振り返れば、10年前の自分には想像もできなかった日々を、今私は歩んでいます。
「止まらずにもがき続けること」
どれだけしんどくても、動くことをやめなければ、必ず何かが変わる。
そう思えるようになったのは、間違いなく、あの苦しい時期があったからです。
その後、息子が誕生し、子どもは3人になりました。
家庭はさらに賑やかになり、子育てと仕事のバランスは一層難しくなりました。
仕事と育児のストレスから全身に蕁麻疹が出たこともありましたが、今となっては、それすら「全力で生きていた証」として前向きに捉えられています。
________________________________________
今、私が大切にしている価値観は、とてもシンプルです。
「お金」や「資産」ももちろん大事。
でもそれ以上に、「今しかできないこと」を大切にしていきたいと思っています。
子どもととことん遊ぶこと。
家族と深く関わること。
そして、自分自身もチャレンジを続けること。
大人になっても、夢中になれることがある人生を。
失敗しても、動きながら考え続ける人生を。
そんな“等身大”の人生を、これからも家族とともに築いていきたいと思います。
あとがき:あの春、コロナがすべてを変えた 亡き父への想い
家が完成し、次女が生まれ、これから新しい暮らしが始まる――。
そう思っていたあの春。まさか、たった一つのウイルスが、私たち家族の人生をここまで動かすとは思ってもいませんでした。
コロナがもたらしたのは、ただの感染症という脅威だけでなく、 働き方の変化、社会の常識の変化、そして、自分自身の価値観そのものでした。
営業ができない。収入が止まる。子どもたちの登園もままならない。 思い描いていた“新生活”は次々と予想外の壁にぶつかり、 何度も立ち止まり、何度も考えました。
でも、あの時「止まらなかった」からこそ、 YouTubeを始め、動画を学び、資格を取り、 新しい場所で働き始め、家族との時間を大切にしながら歩いてこられたのだと思います。
「変わってしまった」のではなく、「変わらなければならなかった」―― あの数年は、自分のエンジンをかけ直す時間だったと、今では思います。
悔いが残ることもありました。
家族で新居を構えたのと同じ頃、実家も建て直すことになり、再出発のようなタイミングでした。 ただ、その中で気がかりだったのが、施設に入所していた父の存在です。
父は若年性パーキンソン病を患い、50歳頃から徐々に体が思うように動かなくなっていきました。 自営業だった設計事務所はたたみ、母がローンを肩代わりすることになりました。幸い、借り手が見つかり家賃収入でローンは返済できたものの、父の身体は日に日に自由が効かなくなり数年後施設に入居する事となりました。
父は本当に穏やかで、私が怒られた記憶はほとんどありません。
優しく、静かに家族を見守る人でした。だからこそ、「なぜ父がこんな病気に……」という思いは、ずっとどこかに引っかかっていました。
運よく地元の施設に入居できたことで、結婚してからも2ヶ月に1回ほどは地元に帰り面会に通い、夏には施設の庭から一緒に花火大会を眺めたりもしました。
幼い長女を連れて行くと本当にうれしそうにしていて、その姿が今でも胸に焼きついています。
しかしコロナ禍となり、面会は制限。ようやく窓越しで面会の予約が取れた時には、父の意識はもう薄れており、言葉も交わせない状態でした。 面会予定だった日に次女が風邪をひいてしまったこともあり、父が昨年他界したこともあり最後まで次女とは直接会うことが叶わなかったのが、心残りです。
闘病が長かったこともあり、元気な頃の父の姿は少しずつ記憶の中で遠のいてしまいました。
自分も父親になり、、、親父は幸せだったのかねとふと考えるときがあります。
コロナは、私たちから多くの「かけがえのない時間」を奪っていきました。 修学旅行や学校行事、人と会う機会、若者たちの学生生活や人間関係……。
それぞれが何かを我慢し、何かを諦めた数年間だったと思います。
私自身も、この経験から学んだことを、これから出会う方々に届けていきたいと思っています。 「もしもの時のために」ではなく、「後悔のない選択ができるように」。 そのお手伝いができる存在でありたいと、強く思っています。
ライフプランやお金のことも大事ですが、 「今しかできないこと」「今だからできること」も、同じように大切にしていきたい。 家族と、子どもたちと、そして自分の人生と、全力で向き合っていきたい。
親孝行したいときに親はなし――そんな言葉があるように、 今この瞬間を大切にして、何事も恐れずチャレンジしてもらいたいと思います。
不安や迷いは常に尽きません。 でも、それを抱えながら進んでいく。それが、いま私たちが生きる時代なのだと思います。
そんな不安の多い時代に、誰かの背中を少しでも押せる存在として、 これからもファイナンシャルプランナーとして寄り添い続けたいと思います。
そう思っていたあの春。まさか、たった一つのウイルスが、私たち家族の人生をここまで動かすとは思ってもいませんでした。
コロナがもたらしたのは、ただの感染症という脅威だけでなく、 働き方の変化、社会の常識の変化、そして、自分自身の価値観そのものでした。
営業ができない。収入が止まる。子どもたちの登園もままならない。 思い描いていた“新生活”は次々と予想外の壁にぶつかり、 何度も立ち止まり、何度も考えました。
でも、あの時「止まらなかった」からこそ、 YouTubeを始め、動画を学び、資格を取り、 新しい場所で働き始め、家族との時間を大切にしながら歩いてこられたのだと思います。
「変わってしまった」のではなく、「変わらなければならなかった」―― あの数年は、自分のエンジンをかけ直す時間だったと、今では思います。
悔いが残ることもありました。
家族で新居を構えたのと同じ頃、実家も建て直すことになり、再出発のようなタイミングでした。 ただ、その中で気がかりだったのが、施設に入所していた父の存在です。
父は若年性パーキンソン病を患い、50歳頃から徐々に体が思うように動かなくなっていきました。 自営業だった設計事務所はたたみ、母がローンを肩代わりすることになりました。幸い、借り手が見つかり家賃収入でローンは返済できたものの、父の身体は日に日に自由が効かなくなり数年後施設に入居する事となりました。
父は本当に穏やかで、私が怒られた記憶はほとんどありません。
優しく、静かに家族を見守る人でした。だからこそ、「なぜ父がこんな病気に……」という思いは、ずっとどこかに引っかかっていました。
運よく地元の施設に入居できたことで、結婚してからも2ヶ月に1回ほどは地元に帰り面会に通い、夏には施設の庭から一緒に花火大会を眺めたりもしました。
幼い長女を連れて行くと本当にうれしそうにしていて、その姿が今でも胸に焼きついています。
しかしコロナ禍となり、面会は制限。ようやく窓越しで面会の予約が取れた時には、父の意識はもう薄れており、言葉も交わせない状態でした。 面会予定だった日に次女が風邪をひいてしまったこともあり、父が昨年他界したこともあり最後まで次女とは直接会うことが叶わなかったのが、心残りです。
闘病が長かったこともあり、元気な頃の父の姿は少しずつ記憶の中で遠のいてしまいました。
自分も父親になり、、、親父は幸せだったのかねとふと考えるときがあります。
コロナは、私たちから多くの「かけがえのない時間」を奪っていきました。 修学旅行や学校行事、人と会う機会、若者たちの学生生活や人間関係……。
それぞれが何かを我慢し、何かを諦めた数年間だったと思います。
私自身も、この経験から学んだことを、これから出会う方々に届けていきたいと思っています。 「もしもの時のために」ではなく、「後悔のない選択ができるように」。 そのお手伝いができる存在でありたいと、強く思っています。
ライフプランやお金のことも大事ですが、 「今しかできないこと」「今だからできること」も、同じように大切にしていきたい。 家族と、子どもたちと、そして自分の人生と、全力で向き合っていきたい。
親孝行したいときに親はなし――そんな言葉があるように、 今この瞬間を大切にして、何事も恐れずチャレンジしてもらいたいと思います。
不安や迷いは常に尽きません。 でも、それを抱えながら進んでいく。それが、いま私たちが生きる時代なのだと思います。
そんな不安の多い時代に、誰かの背中を少しでも押せる存在として、 これからもファイナンシャルプランナーとして寄り添い続けたいと思います。